真実はいつも残酷な姿で目の前に現れる。
成田アヤの前に現れたのは二股をかけられたというものだった。
それを告知したのは下腹部を襲った痛みだった。
8割は症状が出ないと言われる感染症にかかった。
いわゆるクラミジアだ。
ここ最近男性と言えば彼氏しかいないから、相手にそのことを突きつけたとき最初はとぼけていたが、最後には観念して二股を白状した。
思いっきりひっぱたいてやろうかと思ったが、それで済まされそうな気がしたから何もせずに釈明もさせずに別れた。
後々これはこれでなんだか相手に都合がいいような気がして腹が立ったが、それも通り越すとだまされた情けなさと、悲しさでどうしようもないくらいに泣いた。
結果として別れたものの感情を爆発させなかったことが悪かったのか軽い人間不信に陥り職場と家の往復で後は引きこもりに近い状況になっている。
土曜日の午前10時テレビが無駄な情報番組を流していた。
少なくともどこにも出かけるつもりのないアヤにとっては音と映像の羅列でしかない。
布団にくるまりながらぼんやりと眺めるわけでもなく眺めた。
脳天気だなと思うくらいに晴れやかな笑顔で女の子たちが何かを紹介している。
携帯が震えた。
バイブにしていたので枕元でガタガタと震えている。
ディスプレイに表示されているのは友人の名前だった。
出る気になれず無視した。
留守電に切り替わると通話は途切れた。
たいした用事じゃないのだろう。
布団の中に潜り込もうとした。
再び携帯が震えた。
表示された名前は同じ友人の名前だった。
もう一度無視する。
本当に面倒だった。何もかもが面倒で部屋も汚れ始めている。
平均的に女子らしい部屋で明るめの色彩だが過度になりすぎない辺りは、いわゆる男子受けしそうな甘さを出した部屋になっている。
その部屋も脱いだ服やコンビニ弁当の容器がレジ袋に入れられてゴミ箱の近くに汚れていると認識できる程度に置かれていた。
布団の中に潜り込む。
携帯の震えが止むのを待っていた。
停止した。
再び震え出す。
観念して電話に出た。
「もしもし?」
「無視すんな」
「ううう。だって面倒だったんだもん」
「ナタリア。部屋でうじうじしてんでしょ」
「そ、そんなことないよ」
「あんたはわかりやすいね」
「ほっといて。もう寝るから」
「朝の10時に寝るバカがどこにいる」
ドアフォンが鳴った。
遅れて携帯の中からも同じ音が聞こえた。
「え? 外にいるの?!」
「なんだ。やっぱりいるんじゃない。開けなさい。開けないとドアフォン鳴らし続ける」
「無理無理。だってすごい汚いから」
執拗にドアフォンがならされている。ご近所迷惑も甚だしい。
「聞き分けがないと次はドアを叩き続けるよ」
一度ドアが叩かれた。
アヤは咄嗟にドアまで駆け寄ってドアガードをしたままドアを開ける。
「なっちゃんやめてよ。近所迷惑だから」
なっちゃんこと田野上ナツノはドアを叩き始めた。
「え!? わかった。わかったから」
ドアガードを外し扉を開けるとナツノは勝ち誇ったように「よし」と言って部屋の中に入っていった。
ナツノは中身のぎっしり詰まった大きなエコバッグを二つ持っていた。
それをテーブルに置くとナツノはベランダがある方に歩きカーテンを開け放った。
アヤはそのまぶしさに目を細めた。
ついでにナツノは換気のためにベランダのガラス戸を開ける。
「掃除と洗濯よろしく。私は水回りをキレイにして飯を作る!」
背中に日の光を浴びながらナツノはアヤにそう宣言した。
日に晒されると部屋の汚さが浮き彫りになる。
自分にしでかしたことに呆れつつも、高校時代からの親友であるナツノの勢いの良さに押し切られて部屋の片付けを始めた。
部屋を片付けることでなんとなく自分の中の何かを整理できていくような気がした。
12時には片付けも終わり、ナツノの料理も完成した。
小さなテーブルの上にあふれるかと思うほどの料理が並んでいた。
「なっちゃん。これ3日分くらいあるよ?」
「食べきれない分は冷凍するなりしておけばいいのよ」
食い道楽のナツノは料理を作ることが得意だった。探求心が旺盛なナツノは食べたものをそれらしく再現することを趣味としていた。
同じものを使えば同じようにできるが、それでは芸がないので安いコストで似た味を作ることに心血を注ぐ傾向にある。
「ご飯はちゃんと食べないと体だけじゃなくて心も弱るよ。いただきます」
「いただきます」
二人はテーブルを挟んで古い日本の食卓のように両手を合わせる仕草をした。
ちゃんとした食事をするのはどれくらいぶりだろう。
アヤはのろのろと箸をのばし煮物の入った深皿からにんじんを取り出した。
口に運ぶとにんじんらしいにんじんの香りがした。
安くていいものを買うとかいうのが彼女の考えなので、たぶん朝市に行ったのだろう。
「ご飯食べたら外出するよ」
「うん」
ナツノが男だったら間違いなくアヤは結婚したいと思っていた。
自分の意志を持ってはきはきしているナツノがうらやましかった。
それでいてそうはなれないから憧れていた。
自分を確立できているナツノに対して自分はぼんやりとした存在に思えてならなかった。
周りから見るとナツノに振り回されているように見えるかもしれないが、ナツノはナツノなりに気を遣ってくれている。それは十分にわかっていることだった。
キレイに三角食いをしながら次々と食べ物を口に運ぶナツノを見ていると何かあったのかもしれなとふと思った。
視線に気づいたナツノは口の中のものを飲み込んで口を開いた。
「どうかした?」
「ううん。なんでもない」
「そう? 早く食べて外に出かけるわよ」
「この量は早くは食べられないよ?」
「じゃあ、適当に」
食事をした後二人は出かけた。
何をするわけでもなくウィンドウショッピングしたりお茶をしたりして、夕食を食べた。
関内の安いイタリアンで食事をして、ナツノが行ってみたいというバーにやって来た。
SCRAP HEAVEN-
ネオン管にそう書かれていた。
雑居ビルの階段を上がりドアを開けると身長の高い細身のバーテンダーが目に飛び込んできた。
穏やかな声で「いらっしゃいませ。お好きな席にどうぞ」と声をかけてきた。
アヤはナツノと二人でマスターの前に座った。
「何になさいますか。簡単なメニューはありますが、よろしければお好みでお出ししますのでどうぞ」
「それじゃあ、ジンフィズ」とナツノはあっさりとオーダーした。
アヤは慌てて「えーと、なにか甘くてさっぱりしたもので」と注文した。
数瞬の間が空いて長身のバーテンダーはアヤに尋ねた。
「そうですね……ラムとグレープフルーツジュースは平気ですか?」
「大丈夫です」
「では、それらを使ったカクテルをお出しします」
その後バーテンダーはナツノに向き直り「ジンは何か指定の銘柄はありますか?」と尋ねた。
「特にないです」
「かしこまりました」
ビフィータージン45ミリ、レモンジュース20ミリ、シュガー(粉糖)2tspをシェーカーに入れる。
もう一つのシェーカーにラム45ミリ、グレープフルーツジュース45ミリ、ガムシロップ1tsp、グレナデンシロップ1tspを入れる。
氷を詰めたタンブラーをあらかじめ用意しておきジンの入ったシェーカーを振る。
シェークし終わるとそれをグラスに注ぎ、炭酸水を注いでスライスしたレモンを沈めた。
次にラムの入っているシェーカーを振り、ワイングラスに注ぎ大きめの氷を一つ浮かべストローを添える。
二人の前にコースターを置きそれぞれのカクテルを差し出した。
「お待たせしました。ジンフィズです。そして、こちらはイスラ・デ・ピノスです」
「いすらでぴのす?」
「はい。イスラ・デ・ピノスです」
「そんなことより乾杯しよう」とナツノが横やりを入れてきた。
アヤは何度か口の中でカクテルの名前を小さくつぶやいてから、グラスを手に取り乾杯をした。
「おいしい」
「うん。こっちもおいしいよ」
二人はしげしげとグラスを見つめてから、顔を見合わせる。
「交換しようか」
「うん」
ナツノの案をアヤは二つ返事で受けた。
二人は交換したグラスのカクテルを飲む。
「おいしいね」
「うん」
再びグラスを交換してオーダーしたものが互いの手元に戻った。
「二つともいわゆる古いタイプのカクテルに属しますが、おいしいと思います」
バーテンダーは穏やかな笑みを浮かべてそう言った。
「すみません。実はこのカクテルそんなに好きじゃないんです。その店の技量がわかると聞いていたので、なんとなく頼んでいたんです」
「漫画のバーテンダーの影響ですか?」
「……はい」
「そういうお客様もいらっしゃいますからお気になさらずに。むしろそれで関心を持たれたことの方がこちらとしてはメリットだったりしますから。とはいえ、あまりでないカクテルオーダーされても困るんですけどね。忘れっちゃってるから」とバーテンダーは破顔する。
「でも、これはすごくおいしいです。今までいろいろ飲みましたけど一番です」
「ありがとうございます」
「カクテルに関しては横浜の中でじゃ、この店が一番だよ」
カウンターの端の方で女性バーテンダーと話している常連とおぼしき男が二人にそう言った。
「若い子だと話しかけるのやめたら? かっこう悪い」
「そこは他のお客さんの迷惑だからって言えよ。なんか嫉妬されてるみたいで気持ち悪い」
台詞とは裏腹に常連の男はどこか微笑んでいるように見えた。
そして、その常連の男と話している女性バーテンダーは左右の目の色が少し違うように見えるが、不思議な雰囲気のある美女だった。
二人は取っ組み合いでもするんじゃないかと思うほどの口げんかをしているが、どこか会話を楽しんでるようにも見える。
「すみません。いつものことなので気にならないような放置しておいてください」
カウンターの逆の端にいた美青年のスタッフがそう言った。
「気になるなら速攻で止めますので」
「シンゴ。そんなこと言わなくても止めるよ」
長身痩躯のバーテンダーは美青年にそう言うとけんかしている二人の方を見た。
その視線を感じて二人は口を閉じた。
これといって睨んだわけではない。ただ見ただけだった。
それがなおさら怖いもののような気がしたが、口を閉じていたのは一瞬だけでお構いなしに常連らしき男が口を開いた。
「空気悪くしちゃったな。申し訳ない。一杯おごらせてくれないかな?」と常連の男は女性二人に申し出た。
「いや、大丈夫です。なんかおもしろかったし」
ナツノはそう言って笑った。
「そう言ってもらえると助かる。いや、実際断られること前提で話してみたんだよ」
「じゃあ、ください」
「言うんじゃんかった」
ナツノはケラケラと笑った。
「お兄さんおもしろいね」
「なっちゃん。初対面の人に失礼だよ」
アヤはそう言ってナツノの袖を引く。
「そう? ナタリアは心配性だね。この状況でどうこうなるわけないじゃん」
「へー。ナタリアってハーフ?」
「ううん。この子成田アヤっていうんだけど、高校の自己紹介の時に咬んで「な、ナタリア……あ!」みたいなことになって、それ以来高校3年間ナタリアだったんだよね」
アヤはそれに対して不服そうに「それは言わないで」と避難の目で見ていた。
「生粋の日本人か。確かに濃い顔の美人だけど、外国人風ではないもんな」
「でしょ? もう高校時代の3年間そう呼んでいたから今更直せなくなって。町中でうっかり言っちゃうから恥ずかしくて」
「それは直さないなっちゃんが悪いんじゃない」
「そう? あーおもしろい……ちょっとトイレに行ってくるね」
飲みかけのジンフィズをぐっとあおるとナツノはトイレの位置を聞いてトイレに消えていった。
「すみません。水をいただけますか」
「かいこまりました。ちょっとお酒強かったですか」
「いいえ。前の店でも飲み過ぎたので」
氷の入った水をマスターは二つ用意して女性客二人の前に置いた。
ナツノがトイレに消えるのを見て常連の男はアヤに話しかけた。
「なーナタリア」
「もう呼び捨てですか? その名前なんですか?」
「あだ名に敬称をつけるのは変だろ?」
「せめてアヤくらいにしてくれませんか?」
「ナタリア。なっちゃんはなんであんなに無理してるんだ?」
「え? ……わかるんですか?」
「ああ。そういう匂いがするんだよ……失恋とか?」
アヤは「失恋したのは私の方なんだけど」と言いそうになった。
しかし、確かにおかしかった。
ストレスやメンタルが弱っているとナツノは無駄に料理を作る。
今日はその兆候が著しかった。
3日分にもおよぶ量を作ったのは見たことがなかった。
過去の傾向からすると失恋しても一度に食べられないような量だったが、さすがに3日分の量というのは見たことがなかった。
言われるとどんどん不安が鎌首をもたげる。
「ミツルいい加減にしなさいよ」
「ああ。人の領域に入り込むのは信条じゃないが、ああもバランスが悪いと見てられなくてな」
「何が言いたいかわかってるの」
「ああ、サキわかってるよ。すまない。迷惑かけるから謝っておく」
常連客のミツルと女性バーテンダーサキの会話はナツノがトイレから出てきたことで強制的に遮られた。
「マスター。アクアマリンって作れる?」
「できるけど……お節介じゃないか?」
「まあ、そう言わずに」
「やっぱりダメだよ」
「そうか……じゃあ、気が向いたら出してくれないかな?」
「向かないよ」
「ケチ」
ナツノは戻ってくるとミツルとマスターの顔を交互に見た。
「何がケチなんですか?」
「いや、さっき言われたから1杯だそうかなって思ったんだけど、オーダーしたカクテルは作れないって言われたんだよ」
「どうしてですか?」
マスターの顔を見ながらナツノは尋ねた。
「人様のオリジナルなのでちゃんと同じ味に作れないかもしれないので」
「カクテルなんていつか誰かが作ったオリジナルだろ。オリジナルを超える味を作り出す一流の贋作師が何を言うかな」とミツルはマスターに突っ込みを入れる。
「確かに一流だと思います。あ、贋作師という意味じゃなくて。バーテンダーとして」
ナツノが後を追うようにそう言った。
「ということで、彼女に出してあげて」
ミツルは間髪入れずにマスターにオーダーした。
それに続くようにナツノも同じことを言った。
マスターはため息を一つついてミツルを一時出入り禁止にしようかと考えた。
シェーカーを取り出しカウンターに置く。
ラム、ブルーキュラソー、シャルトリューズヴェールを並べる。
ライムを搾る。
ラム40ミリ、ライム20ミリ、ブルーキュラソー1tsp、シャルトリューズヴェール1tspをシェーカーに入れて氷を詰めてシェイクする。
ソーサー型のシャンパングラスに注ぎ氷を浮かべる。
「お待たせしました」
青色の液体の入ったグラスをナツノの前に差し出す。
「じゃあ、遠慮なくいただきます」
一口口に含んだのを確認してミツルは口を開く。
「このカクテルの名前はアクアマリン。アクアマリンは気持ちを素直にさせる力があるパワーストーンなんだよ」
キッとナツノはミツルを睨んだ。
すっとミツルは目を細める。
ミツルの元から微笑んでいるように見える顔つきが余計に笑顔に見えるようになった。
「どういう意味?」
「何をため込んでるのかは知らないけど辛そうに見えたんだよ」
「今日初めて会った人に何がわかるっていうの!」
「わからないから聞かせてくれないか」
「何も知らない人に教える理由はないわ」
「「理由がない」ね……ため込んでいることはあるってことだな。俺は兎も角高校時代から知っている彼女にも言えないのか……すまない。ちょっと卑怯だったな。苦手なんだよな。人がなんか無理しているのは」
「ずるい。先に謝られたら責められないじゃない」
ミツルは深々と頭を下げた。
「なんで世話をやくんですか?」
その言葉を聞いてミツルは顔を上げる。
「だから言ったろ。辛そうな女が嫌いなだけなんだよ」
「それだけで? お節介ですね」
「そうだよ。それだけだよ。バカみたいだろ」
「ですね。普通なら怒って帰りますよ」
「そうだよな。でも、よかったら話してくれないかな? これと言って解決できるとは思っていないけど、話をすれば気持ちは少しはましになることもあるだろ」
「そうやって女性を口説くんですか?」
「あいにくとこの店じゃ口説かない。いろいろ面倒だろ? 常連面させてもらっている店で色恋は御法度なんだよ」
ナツノはサキを見た。
肯定するようにサキは小さく表情を変えた。
それを見て一瞬何か不安げな表情になったが、観念したようにナツノは口を開いた。
「腐れ縁だった男と二度と会わない約束をした。それだけなんだけどね」
「それだけねえ……腐れ縁ってことは大抵一定の年月一緒にいて何らかの感情が存在したわけだろ。いわゆる「情」ってやつはそこに確実に存在しているはずだからな……たぶん、きみを辛くさせているのものの名前は喪失感だな」
ナツノは黙っていた。
ミツルはほぼ無色透明なロックグラスに入った酒を一口口に含んだ。
「理解したくないという気持ちが先にあるから得体の知れないものになっている。失ったものを失ったと認めたくないから気持ちが不安定になり辛くなる。なーに。名前を与えれば存在は確定するからじきに気持ちも落ち着くよ」
見る見るうちにナツノの顔が蒼白になってゆく。目が見開かれ心の中のざわつきと同じくからだが小さく震える。
喪失感という言葉で片付けられたくない。
この気持ちにその名前をつけないで。
勝手に終わらせないで。
言葉を口にしようとしても吐き出せない。
遠くで男の声が聞こえている。酷く間延びした声が聞こえるが何をしゃべっているのかわからない。
出会ったときに互いに恋人がいた。
つかず離れずの距離に甘えていた。
比較した。いつも比較して恋人に対する熱が冷めていった。
タイミングが悪かった。こっちが恋人と別れると相手に彼女ができた。
仕事も忙しかった。それにかまけて連絡をしないでいた。それが救いだった。
逃げ込んでいた。自分の気持ちと向き合った時にどうしようもないところまで来たのかもしれないと思った。だから、目の前から消えようと思った。
決心した。
二度と会わないでおこうと思っていた。
それなのに「付き合っちゃおうか」と言われたときに胸の奥に衝撃が走った。
決意を崩壊させそうなほどのインパクトだったが踏みとどまった。
恋人がいるのにそんなの無理に決まってる。
一瞬喜んでしまった自分の浅ましさに憎悪した。
感情が複雑になりすぎてきっと能面のように無表情になっていただろう。
喪失−
失って二度と戻ることのないもの……
「お客様!」という大きな声でナツノは現実に引き戻された。
声の主はこのバーの店主だった。
自分の真横辺りに空のグラスとそれを握っている手が見えた。
その手はアヤのものだった。
アヤの顔を見ると怒りが滲んでいた。
アヤの視線を追うとそこには濡れたミツルがいた。
一瞬何が起こっているのかわからなかったがアヤがミツルに水をかけたらしいことがわかった。
「なんでそんなこというの! ナツノだって辛いんだよ。あんたにそんなこと言われる筋合いなんてない!」
サキはミツルにおしぼりを渡そうとした。
「いいさ。じきに乾くだろ」
「そう。じゃあカウンター拭いてよ」
「そうする」
ひったくるようにおしぼりを受け取ると中腰になり、ミツルは顔から水をしたたらせながらカウンターを拭いた。
「顔くらい拭いたら? 結局カウンターに落ちて意味ないじゃない」
さらにおしぼりを渡したが、それをミツルは濡れていない場所に置いた。
「ナタリアごめん。行ってくる」
「え?」
ナツノは鞄から財布を取り出し5千円札を置く。
「なっちゃん?」
泣き出しそうな顔でナツノはアヤを見た。
「こんなに大事になってたなんて思ってもみなかった。バカすぎるけど行かなきゃ。ははは……初めて人の恋愛に割り込もうとしている。怖いね」
ミツルは一度鼻を鳴らし「誰かの不幸が自分の幸福に繋がっているとか言わないが、傷つかない人間関係だけなんてあり得ない。それは真剣になればなるほどに。恐れるな。自分に真摯でなければ他人と正面で向き合えない。気づいてんだろ」と言ってカウンターを拭いていた。すでに水がなくなっているので、ただのポーズに過ぎないのだが。
ナツノは一度深呼吸して「ごちそうさまでした」と言って店を出た。
ドアの閉まる音を聞いてミツルは席に腰を落とした。
使っていないおしぼりを広げながら天井を仰ぎ深く息を吐き出す。
そして広げたおしぼりを顔の上に乗せる。
「ただのおっさんね」
「おっさんだよ」
「かっこわるい」
「ああ、生まれてこの方かっこよかったことなんてなかったよ」
「ネガティブね」
「ペシミストだからな」
「そう」
「ああ」
マイナスな会話の流れだがどこか穏やかな日だまりの中にあるようだった。
「あのー」
取り残されて行き場を失い冷静になったアヤがおずおずと口を開いた。
「ナタリア。水いいタイミングだったよ」
おしぼりを取ってアヤを見た。
「すみません。ついカッとなって」
「計算外だったけど、効果的だったな。マスターの声は通るからなっちゃんをこっちに戻してくれると思ったんだよ。ただ、どうやって声を出させるか悩んでたら、まさに呼び水」
そう言ってミツルは笑った。いや、笑ったように見えただけかもしれない。元々ミツルの顔立ちは微笑んでいるように見えるからだ。
「なっちゃんはナタリアみたいに真剣に怒ってくれる友達がいて幸せものだな」
「あんなこと言われてるの見たら普通誰だって怒ります」
「そうね。この人は他人を怒らせる天才だから」
サキはアヤに同調して小さく笑いながらそう言った。
「それは今日に限っては褒め言葉として受け取っておくよ」
「いつも褒めてないから安心して今日も貶されてると思ってね」
アヤは少し離れたところにある窓を見た。正しくは窓の外を見たのだが。
「気になるか? 大丈夫だよ。彼女は上手く行っても行かなくても後悔しない。そして、根拠はないけど上手く行く。そう仕向けたのだから上手く行ってもらわないと困る」
「ううん。たぶん上手く行くと思う……」
「なんだ。寂しいのか。大丈夫だよ。ここに来ればいい」
アヤは少しどきっとした顔になったがすぐに怪訝そうな顔になった。
「お気に入りのお店じゃ口説かないんじゃないんですか?」
ミツルの微笑んでいるように見える口元がすっと上がる。
「口説いちゃいないさ。営業だよ。この店に新しい常連を作るね。口説かれたいなら店を変えようか」
本気とも冗談ともとれる口調で顔には笑みを浮かべてミツルはアヤに言う。
「ごめんなさい」
ちょっと間を置いてアヤは答えた。
「こんなのばかりじゃないから、店には来てね」
サキがフォローする。
「はい。是非。あ、でもご迷惑おかけしてしまったから……」
「お気になさらずに。悪いのはその男ですから」とマスターにしては珍しく少し語気に怒りが含まれているような気がした。
「マスター怒ってる?」
「わかるだろ」
「すみませんでした」
「いい加減にしないと本当に出禁にするからね」
「肝に銘じます」
ミツルは深々と頭を下げた。
「本当に頭下げるのだけは得意よね」
サキはその姿を見てため息と共にその言葉を吐き出した。
店に笑い声が響いた。
それからアヤはなんとなくこの店に足を運ぶようになる。
常連として今夜がその最初の日となった。